NO.102 H30.9.15

(この原稿は13日(木)に書いています)

 

地震が起きてから1週間、僕はずっと自問していました。

それは23年前の阪神大震災や7年前の東日本大震災の時にも、

あるいは一昨年の熊本地震の際にも幾度となく繰り返した自問です。

 

「なぜ、その人たちが犠牲にならなければならなかったのだろう?」

「なぜ、それは自分ではなかったのだろう?」

 

もちろん、そう自問したところで納得のいく答えなんて見つかりません。

けれども、僕はいつも自問してしまいます。何度も何度も問うてしまいます。

 

そして、最後にはいつもこの結論に至ります。

 

だれかが「生きろ!」と願ってくれている。

 

もちろん、犠牲になった方々がそう願われていなかったということではありません。

断じてそういうことではありません。

 

そうではなく、

自分がまだこうして生きていられるということは、

だれかに「生きろ!」と願われているような気がするのです。

何の根拠もありませんが、心のどこか深いところでそう思えるのです。

「犠牲になった人の分まで生きろ!」と。

 

だからこそ、僕は人の役に立とうと思います。

だからこそ、精一杯生徒たちの力になりたいと思います。

僕にとって「生きる」とはそういうことですから。

 

でも、本当は、いつもだれかに「生きろ!」と願われているようにも思えます。

もしかしたら、人は生まれた時からずっと、だれかにそう願われ続けているのかもしれません。