No.107 H17.11.19

 身のまわりにあるあらゆる物を見るにつけ,「つくづく便利な時代になったな」と思います。パソコン・携帯電話にはじまり各種家電や自動車に至るまで,生活のありとあらゆる場面で便利な物があふれています。

 もちろん僕もその便利さを否定する気などさらさらありません。むしろ最大限に享受しているのかもしれません。しかし,どうしても言いようのない薄気味悪さも感じてしまうのです。

 例えば,今の子供は調べものをする時初めからインターネットを使い,瞬く間に調べ終わってしまいます。確かに調べたことの目的は果たせる訳ですから,それはそれでいいと考えることも十分に可能ですが,僕の心には違和感が残ります。振り返ってみると,学生時代から僕も無数の調べものをしてきましたが,その醍醐味は「調べる過程」にこそあったような気がするのです。何か知りたい事柄がありながら調べてもなかなか見つからない時,僕はその知識に対してさらに好奇心と欲求がふくらんでいくのを感じていました。そして,ついにその事柄の発見や理解に至った時の喜びといえば,それが困難の末であればあるほど大きかったような気がします。

 しかし,今の子供たちにそのような喜びはあるのでしょうか?インターネットで調べものをしても僕はそのような喜びを感じることはまずあり得ないと思います。

 実はそれが,便利さの負の側面である「プロセスカット(過程の省略)」なのだと思います。人は弱く面倒くさがりな存在なので,どうしても過程を省いて結果だけを手にしようとします。そして過程の省略は手間が省け,一見合理的に見えます。しかし,その陰で人はどれだけのものを失ってきたのでしょう。例えば,ファーストフードやインスタント食品等がその最たる例です。それらの食品は確かに人間に便利さと余剰時間をもたらしました。ところが,その結果何が起きたのでしょうか。栄養の偏りはもちろん,切れやすい子供たちを生み出す大きな要因と考えられるまでに至っています。

 そう考えると,プロセスカットは人間が生み出したものでありながらも人間の弱い部分に付け入ってくる厄介な存在であると言わざるを得ません。プロセスをカットすることによって,僕は人間の人間らしい部分が損なわれ,人間の危うい部分がより際立ってしまうような気がしています。しかし,そもそも人間の成長にカットできる部分などあるはずがありません。一見無駄に見えるものも含めた全てが自らの成長へとつながっていると僕は信じています。

 そこで,創優会でもプロセスをカットするような指導法は極力避けています。例えば,生徒がもう少し考えれば正解に至るにもかかわらず時間がないからといった理由で解説してしまうような指導法がそれにあたります。子供の成長は大人の都合に合わせて訪れるものではありません。あくまでその子供のペースでゆっくりと実にゆっくりと,しかし着実に訪れます。僕はその成長を阻みたくないのです。創優会が他塾と比較して授業時間を長く取っているのも,実はそういった理由からなのです。

 大切なことは何なのかと考えていくと,今常識としてまかり通っていたりする事柄が,実は次なる悲劇の遠因となっていることがしばしばあります。そう考えると,なんとしても塾生全員が自分の頭で物事を考えられるように育てなければなりませんし,創優会もその達成を目的として日々研鑽を重ねていかねばならないと意を強くする毎日です。やらねばならないことはまだまだたくさんあるようです。