「才能」や「能力」に対する世間の評価が高すぎると感じるのは僕だけなのでしょうか?
たとえば勉強を教えていて、確かに能力が高い生徒とそうではない生徒というのは存在します。
けれども、教えている側としては、
「この生徒は能力が高いから教えやすい」と感じることはあっても、
「この生徒は能力が低いから教えにくい」と感じることはほとんどありません。
能力が高い生徒は、1度教えればわかってくれるのでこちらとしてはもちろんありがたいです。
でも、そうではない生徒も、何度も教えていくうちにわかってくれるので、
あるいは、わかってくれなくてもわかろうとする気持ちさえみせてくれれば、
わからせてあげられないのはこちら側の責任になります。したがって、「教えにくい」とは感じません。
というより、「子供に勉強を教えるというのはそういうことなのだ」
という覚悟がこちら側にできているのだと思います。
でも、そういった「才能や能力の有無」とは別に、教えにくい生徒というのは存在します。
あえて書きますが、それは「逃げる生徒」です。
少しでも難しそうだったりめんどくさそうだったりするとすぐに逃げようとする、そういう生徒です。
そもそも、簡単な問題やめんどうでない問題だけを教えてもらうために、
わざわざ高いお金を払って塾に来る必要なんてないはずです。
塾には、自分では勉強しにくいような問題ができるようになるために来るはずなのです。
にもかかわらず、逃げようとする。
考えているふりだけをして、ひたすらごまかそうとする。
こういう生徒はやはり「教えにくい」と言わざるを得ません。
でも、よく考えてみてほしいのです。
サッカーを習いに来たのに、めんどくさい練習だと体を動かそうとしない生徒。
ピアノを習っているのに、難しい曲だと弾こうともしない生徒。
こういう生徒はそもそもサッカーやピアノを習わないのではないでしょうか
勉強も同じです。
志望校に合格したくて塾に来たからには、
ちょっと難しかったりめんどくさかったりするくらいで
頭を使うことから逃げられては、指導する側としては手の打ちようがありません。
しかもそれは、勉強にとどまりません。
その生徒は、将来社会に出てからは「難しいこと」や「めんどくさいこと」から逃げずに、
きちんと対処することができるのでしょうか?
もちろんゼロとは言いませんが、その可能性は決して高いものにはならないと僕は思います。
まとめます。
指導に当たって、「才能」や「能力」を問うことはまったくありません。
けれども、難しいことやめんどくさいことから「逃げようとする」という姿勢は、
あらゆる指導を難しくしてしまいます。
だからこそ、「何事からも逃げない人間になることが大切なんだ」ということを
子供のころから本人にしっかりと理解してもらうことが肝要なのだと思います。
そしてそういうことを生徒に学んでもらうことも、
学びの森に求められていることの1つだと僕は考えています。
あらゆることから逃げても、「自分の人生」からは逃げられません。
だから、「逃げないということ」を学ばなければ、人生が苦しくなっていくのは当然なのです。
厳しい言葉のように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これが現実なのだと僕は思います。