NO.86 H30.4.21

今週は、あえて「勉強がもたらす弊害」について書いてみたいと思います。

 

どんな物事にも「光(プラス面)と影(マイナス面)」がつきまといます。

「光だけ」や「影だけ」といったものはこの世界に存在しません。

したがって、たとえそれが「勉強」であっても、やはり光もあれば影もあるわけです。

 

では、その「勉強の影」とは何か?

それは間違いなく、「唯一解(ゆいいつかい)を求める癖がついてしまうこと」です。

 

勉強において、

答えはいつも「目の前にいる先生が知っている」か「参考書や問題集に書いてある」わけです。

その前提で、生徒たちはその「必ず一つだけある答えを出そう」とします。

しかも、それは一見当たり前のことで、何ら害のないことにさえ思われます。

勉強というものはいつも(いつの時代も)そうであるのですから。

ところが、「答えが必ず1つだけあるということ」かつ「そういう場面しか存在しないということ」は

この世界のあり方から考えるとむしろ極めて特異なことなのです。

 

たとえば、両親や親戚との人間関係。たとえば、友人との人間関係。たとえば、恋愛。

たとえば、進路選択や志望校選び。たとえば、就職活動。たとえば、仕事の進め方。

たとえば、結婚相手の選び方。たとえば、結婚生活の営み方。

たとえば、子供の育て方。たとえば、老後の迎え方。たとえば、死の迎え方。

挙げていけばいくらでも出てきますが、

これらの中に「答えが必ず1つだけある」というようなものはありません。

目の前の先生が知っているわけでもありませんし(そもそも先生なんていませんよね)、

参考書や問題集に書いてあるわけでもありません(すぐにネットで調べようとする人はいますが…)。

 

すなわち、勉強すればするほど「答えが必ず1つだけある」という状況に慣れていくのですが、

そのような単純明快な状況は実社会に存在しないため(それどころか実社会は極めて複雑にできています)、

「唯一解の世界」に慣れれば慣れるほど、実社会に対処しづらくなってしまうのです。

高1生が毎年「文理選択」において過剰なまでに頭を悩ませていることなど、その最たる例です。

 

だからといって、学びの森はただ手をこまねいているわけではありません。

勉強を指導しながらも、そういった「勉強の弊害」に対抗する手立ても講じています。

その1つが、「自分に合った勉強の仕方を自分で考える」という指導法です。

 

たとえば、英語は何よりも復習が大切な科目です。復習の中身次第で結果が全く変わってきます。

けれども、その復習の仕方は1つしかないわけではありません。

僕が「大枠」は指導しますが、その大枠どおりにただやるだけでは良い復習にはなりません。

大枠どおりでいいのなら、その大枠が「英語の復習の唯一の答え」となってしまいますから。

まずは大枠に沿ってやってみる。その後「ここはこういう風にしてみよう」とアイデアを出し、修正してみる。

そして最終的に「英語はこの復習の仕方で伸びていける」というイメージがわくやり方を見つけ出す。

そういった試行錯誤は、「唯一解を求める勉強」とはまさに真逆のものとなります。

つまり、「自分に合った勉強の仕方を自分で考える」というプロセスが勉強の弊害を減らし、同時に実社会に出てから役に立つのです。

勉強の持つ「光」の側面を最大化し、「影」の側面を最小化する。

そのプロセスが志望校合格はもちろん、生徒の後の人生における可能性に直結すると僕は確信していますし、

だからこそ、指導者はそういう自覚を持ち、一人ひとりに将来を見すえた指導をする必要があります。

「子供を指導する」とはそういうことなのだと僕は思っていますし、

そのような「生徒たちの未来につながる指導」にこそ大きなやりがいを感じます。