No.331 H22.12.11

たとえばの話です。

 

もしあなたが他の誰かのことを知りたい(あるいは理解したい)と思ったとします。

それがどのような理由に基づくものであれ(仕事上の必要性であっても恋愛感情であっても)、

まず肝要なのは、「相手のことを知ろう(理解しよう)とすること」でしょう。

これは当然と言えば当然のことなのですが、この前提があった上で、

知るためにはどのような技術(話し方や聞き方)が必要かという話になるわけです。

 

逆に、「相手のことを知ろうとする」つもりもなく、ただ単に技術だけを高めようとしても

相手の人にとってはむしろ嫌な人だなと誤解されてしまう可能性すらあります。

 

相手のことを知ろうとしていないのに、知るための技術だけを学ぶ。

こんなことはほとんど無意味ですし、そもそも大いに矛盾しています。

 

でも、国語の文章読解ではこのような場面をたびたび目にします。

 

文章の内容を全くわかろうとしないで設問だけ正解しようとする。

なるべく文章は読みたくないから、傍線付近だけ読んで点数を取ろうとする。

 

その原因のほとんどは「文章を読むのがめんどうくさい」という点にあります。

つまり、読解力不足という問題の主たる原因は「能力不足ではない」ということになるわけです。

 

仕事柄僕は、小5から大学入試まで毎日毎日様々な文章を読み、設問を解きます。

その際、「読むのが面倒くさいなあ」と思うことはほとんどありません。

それは、大学入試の文章も小5の文章も「実際に読んでみれば面白い」からです。

文章の種類は問わず、どんな文章でも確実に楽しめます。

なぜなら、それらの文章には「書いた人の思いが込められている」からです。

 

伝えたい思いや届けたい気持ちがあるからこそ人は文章を書くわけです。

このお便りもそうです。

伝えたい思いや届けたい気持ちがなければ7年以上も書き続けられるはずがありません。

 

出版されている書籍であればなおさらです。

伝えたい思いや届けたい気持ちが本当に強く確かなものであるからこそ、

出版社の人間を動かし、出版社はそれが在庫になってしまうリスクを承知で出版に踏み切るのです。

そういう文章が面白くないはずがありません。

先週も6年生の予習に出す文章を選びながら、

「ああ良いこと書いてるなあ」と有り難い気持ちになりました。

 

僕は文章を読むことを「書き手との人間関係の一環」だと思っています。

実際に会ったことはなくても、そこには確かな人間関係が成立すると思っています。

「『読んで欲しい』と願う筆者の思いをしっかりと受け止めて、自分なりに理解する」

これはもう立派な「人間関係のやりとり」ですよね。

 

村上春樹さんが自分のエッセイに以前このようなことを記していました。

「本屋さんで自分の小説を読んでいる人を見たら、

(それが立ち読みであったとしても)やはり嬉しいものです。

自分が書いたものを読んでもらえるだけで作家にとっては至福なのです。」